泣き笑い? 出会いを詠んだ恋愛川柳

今泣いていたはずが、もう笑っている!

鳴いたカラスがもう笑う
そんなことが幸せなのだ
夢と現の幸なるものの違いかな
泣いたカラスがもう笑う、などと古臭い格言を持ち出すと気の利いたこと一つ言う男もいないのだろう、と指摘されたりする。

が、実際泣きを見ても、もう笑ってる!とおさまれば、なかなかに幸せだ。

夢見るばかりでは美しさにかまけ、実際を忘れがちだ。

なくしたくない心というものの功罪は、そんな夢ばかりという事態を招く。

鴉まで不幸にせずにはいられないとはいかな心のなせる技か。

鳴く鴉の不幸が気になって仕方ない。

カラスのぬいぐるみの不幸なことと言ったら!

春が来て思い出したのは亡き人

二度とないという呟きは
彼女の死が分かつ時の仕業
巡り来ることのないはずの春に思う
彼女が死んだ。

存在感や威光などではない。

動物のよう、あるいは動物に成り切って獣道しか知らなかった彼女は、いつでも獣として命がけだった。

その大きい獣の肉の重みとして、忘れがたい彼女。

やっと死んだ!歓喜の声をあげ、遊びに行きたくてウズウズしている子供のような心もちになった。

肉の重みに縛られていたのだ。

飼っていた猫にすらなりきれずに。

夢に見た解放の時は今!数年経ってしまった。

なかなかに信じられないことだ。

そんなこともないのか。

見上げた花火と野宿の関係

何処から見よう今年の花火
夜空に散る花の舞が犯人
野宿では生きれない好きでなければ
上から?下から?それとも横から見る?そんな映画があった。

10年ひと昔の10年は当に過ぎてしまった。

月日は流れていく。

夜空に散っな花の舞は、散り行き過ぎ去れば誰もいない。

けれども変わらない大きなもの、それは神ばかりでなく、人の世界を支える大きな仕事のようなものの強いちからだ。

神を畏れるがごとく、というわけにはいかないご、リスペクトと言葉にするが支えられて生きていることに感謝することを忘れないでいたい。

今年も夜空に舞う花の彩り。

ぜひ見たいものだ。

阿波踊りから帰ってきた夜店

踊らにゃ損!と踊るばかり
阿波踊りの他人ばかりなことに気づき
帰ってきてみれば、また夜店
踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損!夏がらまたやってしました。

阿波踊りまでにはまだ幾日かあります。

毎年、夏が来て8月が終わりゆく頃、思うのです。

躍らにゃ損!と思ったわけでもないのですが、取り合えず踊っていれば嫌なことを思い出すこともありません。

存外楽しいものですね。

表現の域に飛び出していった人も多いのではないでしょうか?デラシネらという劇団の公演に行ってきました。

試みとしての表現、表現としてのダンスですね。

もっと紹介しくれるといいのですが。

手の平に仄かに光る線香花火

宵闇のゆるやかな夏の一日
濃密な夏の暑さからも隠れるがごとく
そっと火をつけた線香花火、忘れまじ
夏の夜の美しさに、時を忘れることがある。

手のひらに仄かに灯るのは、二人で火をつけた線香花火だ。

火の玉やもっと怖い球になって化けて出てきた!という怪談も長く続いている。

今年も夏はやってくるのだ。

人が去り、時が流れ、変わりゆく心がどれだけ当てにならないものだとしても、だ。

線香花火をつけ宵闇の濃いこと、その密なる夜の不思議を再び見たいと思うのだ。

美しき言葉を再び手にする為に手はある。

手がある。

あきらめることなんかないのだ!

夜に瞬くものについて

時は流れていく。

充実してなお時の早さに驚くことしきり。

暑い季節というのは、暑さや汗の結晶!を生むまでがむき出しで子供じみている。

暑さや夜の霧の深いことで開放感なるものが、人を甘くする。

甘い夢と甘くなる人では、全く違うものだ。

砂糖菓子のような女の子に到底なれないことを誰かのせいにするのは、もうやめよう!!そんなことを呼びかけたい気持ちだ。

無理や無茶ではいい女にはなれないのだ。

夏の夜の夢というシェークスピアの小説を愛読しすぎて妖精の面持ちが変わった。

変わりゆく人とは違う。

だが、登場人物に夏の夜を盗まれないぞ!と決意するのであった。